2012年11月09日

黒田官兵衛⑦

黒田官兵衛⑦



1582年 (37歳)
山崎の戦。


秀吉勢を京都に入れては、数に劣る明智光秀に勝ち目はない。
戦いを少しでも有利にするため、摂津国と山城国の国境、淀川と天王山にはさまれた山崎の隘路(あいろ)での決戦を決断するが、山崎を見下ろす位置にある天王山を秀吉の先鋒、羽柴(豊臣)秀長、黒田官兵衛ら5千に抑えられてしまったため(「天王山」の語源)、想定した山崎の町ではなく、町の東を流れる円明寺川(淀川の支流)の東河畔に、勝龍寺城を背に広く展開した形で布陣した。光秀の本陣は御坊塚に置かれた。この時の明智勢は1万6千。一方の羽柴勢は、右手の淀川沿いを池田恒興、加藤光泰の5千が進み、円明寺川に西河畔に高山右近、中川清秀らの約5千が明智勢を正面に受ける形で布陣したが、このままの形では高山、中川勢が集中攻撃を受け撃破されることが明白なことから、天王山にいた羽柴(豊臣)秀長が、堀秀政の2千を高山、中川勢の後詰めへ回り込ませ、自らも黒田官兵衛とともに天王山を下り敵の左翼に当たることになった。
山崎の町の西方待機していた羽柴(豊臣)秀吉は、堺からやっと駆けつけてきた神戸(織田)信孝と丹羽長秀の8千を合わせた1万の軍勢で行動を開始、山崎の隘路を抜け戦場へ向かった。
戦闘は、羽柴(豊臣)秀長、黒田官兵衛らの左翼部隊に、明智方の右翼勢が攻め掛かり始まり、明智勢の猛攻に羽柴勢は押され気味となる。また中央部の戦闘でも、 秀吉方の中川清秀、高山右近の部隊に、光秀方の斎藤利三、伊勢貞興隊が押され劣勢となるものの、後詰めに駆けつけた堀秀政により踏ん張った。
大勢を決めたのは、羽柴方の右翼隊だった。池田恒興、池田元助、加藤光泰は、淀川沿いを進み、敵を蹴散らしながら円明寺川の向こう岸へ渡ると、明智勢左翼の側面からつき崩したのである。

秀吉が、勝利を決定づけるように、さらに右翼部隊に兵力を投入したことから明智勢は総崩れとなり、光秀は後方の勝龍寺城に退却した。しかし勝龍寺城は防御しにくい平城だっとことや、味方兵の脱走が相次いだことから光秀は密かに城を脱出、居城の近江国坂本城への敗走途上、小栗栖の竹藪(後の明智薮)で、土民の落人狩にあい負傷、重臣の溝尾勝兵衛(茂朝)の介錯で自刃した。11日天下であった。


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Posted by 中津商工会議所 at 08:20 │軍師官兵衛