2012年11月12日

黒田官兵衛⑧

黒田官兵衛⑧


1586年 (41歳)
九州攻めの先駆けとして進軍を命じられた毛利氏の軍監をつとめる。



豊前国、豊後国、筑前国を除く九州の中部から南部をほぼ勢力下に収め、九州の覇者として台頭してきた島津氏に押された豊後国のキリシタン大名大友宗麟は、上洛し豊臣秀吉の臣下につき、島津氏征伐を依頼した。全国平定を進める豊臣秀吉には、願ってもない九州征伐の口実ができたわけである。
豊臣秀吉は、私闘を禁じる「惣無事令」を発令し島津氏をけん制したが聞き入れられなかったことから、中国の毛利氏や四国の長宗我部氏に島津攻めを申しつけ、軍監として黒田官兵衛、仙石秀久を派遣することを決定した。あくまでも九州平定を目指す島津勢は、大軍を二手に分けて進軍。

一隊は、島津忠長、伊集院忠棟が率いる2万で、筑後国から筑前国に入り、誘降に応じなかった筑紫広門の勝尾城を攻略、秋月種実の案内を受け大宰府を平定し、高橋紹運の岩屋城を苦戦の末落城させた。(岩屋城の戦)

その後、立花城攻めに苦戦していることろに毛利軍接近の報が入り、島津勢は薩摩国を目指して撤退した。
もう一隊は、さらに二手に分けられた。まず島津義弘率いる2万5千は肥後国から豊後国に入り、大友氏傘下の豪族を味方に付けながら、入田宗和の津賀牟礼城に着陣した。
入田宗和は、父が二階崩れの変の際大友宗麟によって自害させられた恨みから、島津についたのである。
もう一手の島津家久は1万を率いて日向国から北上し豊後国に入り、これも大友傘下の柴田紹安を味方につけ、松尾山に着陣した。
その後島津家久は、佐伯惟定の栂牟礼城を攻めたが城は落ちなかった。
秀吉の派遣した先遣部隊が、豊後国で島津勢と激戦となったが、(戸次川の戦)、長宗我部元親の嫡子長宗我部信親や十河存保を討たれてしまうという大敗を喫し、島津は豊後国を平定した。

豊臣秀吉は1587年1月、20万の大軍を九州に向けて出陣させ、弟の豊臣秀長を日向国方面の総大将とし、自らも肥後国方面から南下した。豊臣秀長が日向国に侵攻し、山田有信の高城を包囲すると、島津義弘はこれを救援に向かうが大敗(根白坂の戦い)、都於郡城も落とした豊臣秀長は薩摩国へと侵攻した。
一方豊臣秀吉は、秋月種実の古処山城を包囲し、付城を築城し戦意を喪失させ攻略すると、肥前国島原の有馬晴信の誘降にも成功し、肥後国高田から出水城まで後退した島津忠辰を降伏させ、さらに南下し薩摩国の泰平寺に着陣した。
秀吉の強さを甘く見ていたことを悟った島津義久は、5月、剃髪して(龍伯と名乗る)泰平寺の豊臣秀吉に降伏した。この後も義久の弟、島津義弘らは秀吉に抵抗したが、義久の説得によりようやく降伏した。

島津は、薩摩国と大隅国だけを安堵された。

豊後国は大友義統に与えられ、父の大友宗麟にも日向国一国が与えられることになったが、宗麟はこれを辞退している。また、筑前国の秋月種実は日向国高鍋へ3万石に減封の上、移封された。これにより豊臣秀吉は、坂東、奥州を除く日本の大半を平定するに至った。



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Posted by 中津商工会議所 at 08:00 │軍師官兵衛