2012年11月14日

黒田官兵衛⑨

黒田官兵衛⑨

1587年 (42歳)
豊臣秀吉から、豊前国京都郡、築城郡、上毛郡、下毛郡、宇佐郡などに12万石を拝領し、中津城主に。



【城井鎮房の暗殺】
城井谷城(きいだにじょう)は、現在の福岡県築上郡築上町寒田にある城跡。萱切城などの別名がある。

1195年、源頼朝によって豊前守護職に任ぜられた宇都宮信房が築城し、城井宇都宮氏の居城となった。後に宇都宮氏は城井氏と改名するが、この城の重要性は変わることなく、城井谷城を中心に城井氏は豊前の勢力を保った。

時代は流れ、戦国時代になっても、周囲の勢力の変遷(大内氏→大友氏→島津氏)に翻弄されながらも、城は一度として侵されることなく存続した。しかし1586年より始まる豊臣秀吉の九州征伐によって、城井氏当主城井鎮房も秀吉に従うこととなった。1587年、秀吉は城井鎮房に伊予国への移封を命じたが、父祖伝来の地を守りたい一心の城井鎮房はそれに反発。中津城に入った秀吉の参謀黒田孝高と不穏な空気が流れることとなった。城井鎮房の心情を良く知る毛利勝信は、城井鎮房に一度城井谷城を出て、その後に秀吉への嘆願を行うことを提案し、鎮房は城井谷城を明け渡した。勝信は秀吉へ城井氏移封を中止するように訴えたが、秀吉は頑としてこれを拒否。鎮房はついに決断し、同年10月、城井谷城を急襲し、奪回。籠城して豊臣軍を迎え撃つこととなった。

地の利のある城井鎮房(軍勢1,500)はゲリラ作戦により、攻撃してきた黒田孝高・黒田長政親子(軍勢4、500)が率いる豊臣軍を撃退。鎮房は本領安堵を条件に和議を受け入れ、1588年、中津城へ向かったが、孝高が長政に授けた謀略により、鎮房は城内で暗殺された。この鎮房が中津城で謀殺されたおり、家臣団は合元寺で待機していた。 そして、その場で主人の訃報を知る事になるのである。彼等は非業の最期を遂げた主人に報いるため、この寺内外にて 自らも勝てぬ戦いを敢えて挑み、玉砕していった。今も寺の庫裏の柱には、その当時の刀傷が残るという。
城井氏は滅亡、城井谷城も廃墟となった。

戦国の世とはいえ、孝高はこの謀略で勇将の城井鎮房を殺害したことを悔い(中津城に城井鎮房の亡霊が出たためとも)、中津城内に城井神社を創建し、その霊を祀っている。後に黒田氏の居城となった福岡城にも創建されている。

中津城そばにある城井神社
黒田官兵衛⑨

合元寺のホームページはこちら→http://www.geocities.jp/akakabe871/


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