2012年11月08日

黒田官兵衛⑥

黒田官兵衛⑥



1582年 (37歳)
中国大返し。


6月2日の本能寺の変の報を備中高松城の水攻めの陣中で知った羽柴(豊臣)秀吉は、配下の黒田官兵衛や弟の羽柴(豊臣)秀長らと協議の上、明智光秀討伐へ向かうことを決意。
毛利方に変を知られると追い討ちを受けることは必至であることから、早々に毛利方の使者安国寺恵瓊と交渉を行い、城主清水宗治の切腹を条件に和睦を決め、早々に京都へ向かう。(備中高松城の水攻め終結)
6月6日の夕方退却を開始、播磨国の姫路城までの90kmを昼夜兼行で走り、8日の朝入城。
姫路城には戻らないという背水の陣を敷くために、城内に蓄えていた全ての金銀や米を家臣に分け与え、9日に出陣、11日には尼崎に到着した。
秀吉は、本能寺の変を嗅ぎつけた中川清秀に対し、「信長公は近江国の膳所に生き延びている」との偽情報を流した。これが、どちらにつくか迷っているであろう諸将を味方に引き入れる結果につながった。
信長の三男織田信孝、丹羽長秀、高山右近などである。織田信孝、丹羽長秀は、光秀に加担するとの情報を得ていた信長の甥、津田信澄(光秀の婿となっていた)を、滞在場所の大坂に攻めて自害させた。
秀吉は、12日に摂津国富田で評定を開き、信長の三男織田信孝を総大将に据え、味方についた丹羽長秀、池田恒興らの4万の大軍の事実上の総大将として京都を目指した。このことも、次の天下人は秀吉という印象を世間に植えつける材料になった。
明智光秀に恩があり、当然与するものと信じられていた大和国の筒井順慶は、秀吉来るの報を受け、「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」で合流しようという光秀からの誘いに乗らず(「洞ヶ峠を決め込む」の語源)、動かなかった。また、光秀と姻戚関係のある丹後国の細川幽斎(藤孝)・細川忠興父子も、忠興の妻、玉(細川ガラシャ=光秀の娘)を別居させ、光秀には与しないことを宣言。このように光秀は孤立していく。
そして13日午後、秀吉率いる明智光秀軍1万6千と、山城国と摂津国の境にある山崎で決戦を行う。


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Posted by 中津商工会議所 at 08:23 │軍師官兵衛