黒田官兵衛⑩

中津商工会議所

2012年11月20日 12:36




1589年 (44歳)
家督を息子の黒田長政にゆずって隠居し、如水軒を名乗る。

家督を譲った後も、如水は秀吉の側近として仕えた。天正18年(1590年)の小田原征伐では小田原城に入って北条氏政・氏直父子を説得し、無血開城させる功績を立てた。この時、北条氏直から名刀「日光一文字」などの家宝を与えられている。

文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵の文禄の役では、総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れず病を理由に帰国。文禄2年(1593年)には日本軍が明軍の参戦と補給の行き詰まりにより和平を模索する間、再び朝鮮に渡り和式城郭の縄張りや、 第二次晋州城攻防戦において後藤基次らが用いた亀甲車の設計などに携わっているが、石田三成などとの間に確執が生じて東莱城より再帰国。秀吉の怒りを買ったために、「如水円清」と号して出家している。


【官兵衛の隠居】
黒田官兵衛が長政に家督を譲って隠居したのは44歳のときであるが、働き盛りの年齢で隠居したのは秀吉に恐れられていることを知って身の安全を図ったためと言われる。次のような逸話が残っている。
秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねた。家臣たちは徳川家康や前田利家の名前を挙げたが秀吉は黒田官兵衛を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前たちはやつの本当の力量をわかっていない。やつに100万石を与えたらとたんに天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた黒田官兵衛は身の危険を感じて隠居を申し出たという。
これはわざと情報を流すことで周囲の反応を見ようとしたものと思われる。一方、隠居は三成ら若い人材の台頭なども理由と言われる



黒田官兵衛⑪へ進む

黒田官兵衛⑨へ戻る

黒田官兵衛①から見る

関連記事