黒田官兵衛⑤
1582年 (37歳)
秀吉に毛利方の備中高松城の水攻めを提案。
対峙中に本能寺の変を知り、秀吉に主君織田信長の仇明智光秀討ちを薦める。
翌天正十年(1582)、毛利氏と雌雄を決せんとする秀吉に従って備中国に出陣した。四月、清水宗治が守る備中高松城を包囲した。ここで、官兵衛が秀吉に水攻めの策を献じたことから、史上有名な「備中の水攻め」となった。
ところが水攻めも大詰めとなった六月、本能寺の変で信長が光秀に殺害された。本能寺の変の飛報を受けて秀吉が呆然としているのを見て、官兵衛は微笑を浮かべて「ご運の開かせ給うべき時が来たのでござりまする。この機を逃さず、巧くおやりなされ」と囁いた。秀吉は自分の心中の機微を苦もなく見抜いた官兵衛の鋭さに驚き、以後、警戒心を許さなくなったという。秀吉が官兵衛ほどの天下第一流の参謀に生涯、豊前中津で12万2000石の小禄しか与えなかったのは、このことがあったからとだといわれる。
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