黒田官兵衛③

中津商工会議所

2012年11月02日 08:00



●播磨国の攻略
1577年 (32歳)
織田信長から中国平定の指示を受けた羽柴(豊臣)秀吉は、1577年に、播磨国御着城主小寺政職の家臣、黒田官兵衛の案内で姫路城に入ると、播磨国の攻略を開始した。

さて小寺氏が織田信長に帰属したことは、早くに毛利氏に知れ渡ることになりました。更に荒木村重が同じく信長に帰属したことで、播磨の豪族達には信長になびく者が現れました。毛利氏は危機感を覚え、1576年に孝高(官兵衛)の姫路城を攻撃します。
しかし孝高はまたもや奇襲戦法を用いこれを撃破しました。ところが、毛利氏が「織田信長は譜代の臣である者たちにも残酷である。そなたらのような新参者がどのような目に合わされるとお思いか?」と、播磨の豪族達に説いたので、播磨では、再び毛利氏の勢いが盛んになったのです。
孝高は秀吉に播磨の状況を伝え、秀吉もまた、それを信長に伝えました。
それを受けた信長は中国地方への侵攻を決意。信長は自分になびいた播磨の豪族達に人質を出すことを要求します(豪族達の裏切りを防ぐため)。
もちろん小寺氏も例外ではなかったのですが、小寺政職は人質を出すのをためらいました。そこで孝高は自らの息子である松寿丸(黒田長政)を、小寺家の人質として信長の元に送りました。
その後、播磨攻めの大将である秀吉が小寺政職のもとに向かってきたのですが、ここで問題が生じてしまいます。というのも、政職が再び、毛利氏につこうと動いていたのです。孝高はとりあえず秀吉を姫路城に迎え、政職を説得しますが、結局政職は動きませんでした。 
もしそれが信長に知れてしまったら、政職、ひいては自分の命すら危うくなってしまいます。
なので孝高は、とりあえず東播磨に割拠している豪族達を説得によって懐柔し、帰属させました。秀吉は大いに喜び「今より兄弟の盟を結ぼうではないか」と、孝高と兄弟の盟を結び、政職のことは不問としたのです。

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