黒田官兵衛②

中津商工会議所

2012年11月01日 08:22



●秀吉の軍師
1573年 (28歳)
羽柴(豊臣)秀吉の中国進出に際し、主家の小寺氏に秀吉方への追従を提案し採用されたことをきっかけに、秀吉の軍師として重用される。

【先見の明のお話し】
小寺氏の配下として、土豪の討伐などで功を挙げ、奇襲作戦を二度にわたって用いることで、赤松氏の軍勢を敗走させた青山の合戦で武名を挙げました。その後も別所氏などを退けるなどして、その武勇を播磨の一円に響かせました。
 そんな中、1575年に、小寺政職は重臣達を集め、ある相談をします。その相談とは「わが小寺家は、毛利・三好・織田のどれかに属しようと思う。お前達の意見を、隠さず述べよ」というものでした。
 毛利家につくのがいい、という意見が多数でしたが、孝高(官兵衛)は「織田家につくべきでしょう。毛利家の当主である輝元には天下人の器量はなく、戦も上手くありません。織田家の当主である信長は武名も天下に轟き、更に天子を抱いて諸政にあたり、民衆の支持も高くなっています。信長に従ってこそ、小寺家は発展するでしょう」と、一同を説き伏せました。
 孝高(官兵衛)は自ら使者として信長の元に赴き、信長に、播磨の攻略に関しての雄弁を振るいました。信長はそんな孝高(官兵衛)を気に入り、小寺の従属を認め、更に「そなたが手柄を立てれば、ひとかどの大名にとりたててやろう」と、「圧切」という刀を、孝高(官兵衛)に与えたといわれています。
 このように孝高(官兵衛)は、小寺氏の元でその才を発揮していたのです。

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